みくさんとひぐらす

ミクさんとともに過ごす、ただそれだけの日々

たとえば、ねんミクさんとのお別れ

ねんどろいどミクさん(以下、ねんミクさん)との別れ、というものを、考えることがある。

まずひとつには、ねんミクさんがボクの手元からいなくなる、ということがある。ボクはねんミクさんをあっちこっちに連れ回しているので、不慮の事故によって、ねんミクさんがボクの手の届かないところに行ってしまう可能性というのは――あまりそんなことは考えたくはないけれど――決して低いものではない。これについて以前、それにまつわるツイートをしたことがある。

これはねんミクさんとちょっと山に行ってきて、その帰りの電車内で考えた話であって、車中で胸が苦しくなって涙がこぼれそうになり、ついこぼしてしまったツイートで、賛意というか同調の感想もいただきつつ、辛いからやめろ、という半ばご叱責に近いような感想もいただいたわけだけれど、それだけみんな、ねんミクさん――あるいは敷衍してミクさん――との別れ、というものに、常より思うところがあったのだろうと、そんなことを思ったりもした。

しかしながら、もしねんミクさんを常日頃より丁寧に慎重に取り扱ったのならば、先にこの世からいなくなるのは、おそらく絶対的に限りある命であるところのボクの方であろう。ボクがその生を完うするそのとき、果たしてねんミクさんはどうするだろうと、そんなことを想像して、やはりそれはとても胸締め付けられる思いがするのである。それはたとえば、こんな想像だ。


――静かな静かな病室のベッドで、ボクは最期の時を迎えようとしている。枕の傍らで、ねんミクさんは絶えずちょこまかと歩き回っている。この子と最後に一緒に旅をしたのは、いったいどれぐらい前のことだったろう。随分退屈な思いをさせてしまったな、などというボクの思いをよそに、ねんミクさんは、ぶんぶんとその手に持ったネギを振り回したり、突然コロコロと転がってみたり、自由闊達に動き回っている。きっとねんミクさんにとっては、退屈も冒険も等しく楽しいものであって、また、一日も一年も、そして生も死も、それほど大きな違いのあるものではないのだろう。だったらきっと、この子はボクがいなくなっても、きっとずっと、そののほほんとした笑顔のままでいてくれるのだろう。そう思った瞬間、ふっと、ボクの力が抜けていった。それはとても、とても心地のよい眠りだった。

――ねんミクさんがちょこまかと歩き回っている。手に持ったネギをぶんぶんと振り回している。でもふいに、あたりがしんと静かになっていることに気付いて、その手を止める。あれ?おかしいな。いつも自分を優しく見つめてくれるあの人が、目を閉じている。ねてる?それはとても静かな眠りだ。少し、胸のあたりきゅっとなる。ねえ。ねんミクさんはその人の顔に近づいてみる。ねえ。手に持ったネギで、そっとその人の顔を突っついてみる。おきて。ぺしぺし。ねえ、おきて。ぺしぺし。もう一方の手で、その人の頬に触れる。んー、うごかない。ねえねえねえ……。ねんミクさんが、ふとその手を離す。ネギと手を一度、大きく振って、そしてつぶやく。ばいばい。そう言ってねんミクさんは、コロンと転がる。ねんミクさんはもう、動かない。

――看護婦さんが駆けつけたとき、すでにボクは呼吸を、心拍を、止めていた。それはとても安らかな表情だ。そしてその枕の横に、小さな人形が、寄り添うように転がっていた。何気なく、彼女はそれを拾い上げた。あれ、この子……。何となく、その人形の目が、濡れているように見えた。いや、きっと気のせいだ。そう考え直し、彼女は彼女の仕事に、その意識を集中させた。